第5話 何も知らない彼の背中
あれ以来伊月とは会っていない。伊月に会いに隣の教室に行ったりしたけど、姿が見えなかった。連絡先も交換していない事に、今更気づくとまたいなくなるんじゃないかと不安が押し寄せてくる。 「あれ薫くん、夏樹くんお休みだよ」 そんな薫に近づいてきた女子の集団がそう教えてくれた。理由は詳しくは知らないようだが家庭の事情との事だった。薫は伊月の事を何も知らない、知らなすぎる。自分の元に帰ってきた事が嬉しくて舞い上がっていた自分に対して嫌悪感を抱きながら、自分の教室へと戻った。 「情けねぇ……」 凹んでいる自分を隠す余裕はなかった。今の自分に出来る事なんて何もないんじゃないかと自暴自棄になっている。 「そんなに心配なら、家に行けば?」 「……天田先輩」 美乃里の同級生でもあり、薫の親戚にあたる天田桐也が提案をしてきた。 「なんでここにいるんですか」 「ん〜暇だから観察しにきた」 変わり者呼ばわりされている桐也は自分が浮いている事に気づいていない。滅多に薫の教室に来る事なんてないのに、ベストなタイミングで現れた。 まるで全てを知っているように見透かしてくる桐也から逃れる事は出来ない。何故なら一時の過ちで関係を持ってしまった過去があるからだ。 「可愛い彼氏が出来たって聞いたけど、俺諦めてないからな」 「何言ってるんすか。冗談ばかり」 笑って誤魔化そうとしても通用しない。クラスメイトからしたら笑っている薫を見る事が初めてで、物珍しそうに2人の様子を見ている。 視線が痛い── こんな時、伊月ならどうするかと考えてみるが薫は伊月になり切れない。でもきっと気持ちは同じだと気持ちを奮い立たせた。 ガタンと立ち上がると引き寄せられるように荷物を手に取り、教室を後にした。そんな薫の様子を見て面白くない桐也は不貞腐れた様子で見つめている。 「薫、待て」 「……」 一生懸命に走る薫に声をかけるが届かない。どうして自分がここまでしないといけないのかとため息を吐くと、思いっきり息を吸い込み、腹に力をいれ大声を出した。 「家知ってんのか、お前」 その言葉で我に返った薫は自分が何処に向かって走っているのか不思議に感じた。そしてふらふらと立ち止まると猛スピードで薫に追いついた桐也が頭を小突いた。 「学園出てきたはいーけど。彼氏くんの住所知ってんの?」 「そこまで考えてなかった……かも」 「それ1番重要だろ。お前の事だからもしかして……って思って追いかけた」 1番大切な事が頭から抜けていた。何処に向かっていたのかも分からない。桐也が呼び止めてくれなかったら、今頃途方に暮れていただろう。 桐也がもう一度小突くと、困ったように笑いながら口を開く。 「そんなお前、見てらんねぇよ。俺も付き合ってやる」 「桐也くん……でも住所」 「俺について来い」 第6話 告白 「なんで家知って──」 「ライバルの事はリサーチするでしょ、普通だ普通」 桐也がどこまで調べているのか不思議に思いながら目の前の光景に圧倒されてしまう。見た感じ普通の家に見えない。壁に隠れて様子を伺っているが、黒塗りの車が数台止まっていて、ガタイのいい男達が出入りしている。勿論家も大きい、どこからどう見ても薫の知っている世界とは程遠い異空間に入り込んだようだった。 「こんな所で見てても時間の無駄だな、行くぞ」 「そうだな」 同意はしてみたものの、少し勇気が必要だ。ゴクリと唾を飲み込むと、ゆっくりと近づいて行った。 「すみません。夏樹くんいますか」 「坊ちゃんに何の用だ」 伊月と呼びそうになりかけたが、夏樹と呼ぶ約束を守る為に、ここは踏ん張った。その様子をジロジロと見てくる黒服の男は怪訝な顔で睨んでいる。蛇に睨まれるとはこの事かと納得しながら、噛み付こうとした瞬間、異変を感じ取ったかのように、伊月が門から出てきた。 「遅い、何して──薫?」 「来ちゃった」 「マジか」 いつものふんわりとした可愛い伊月はいない。どちらかと言うとカッコイイ。スーツを着ているのもあるかもしれないが、前髪を上げてビシッと決めてる姿が堪らない様子。ポケーと見惚れている薫を小突くと、桐也が守るように二人の間に割り込んだ。 「薫が心配してんぞ、伊月」 「なんでお前が」 「俺は薫のナイトだからね。この家を教えたのも俺だし」 そう言って薫の頬にキスを落とすと、伊月に煽り出した。一体何がどうなっているのか分からない薫はそんな事よりプチパニックになっていて、周りが見えなくなっている。 「天田、何してんの? 薫は僕のだから」 「何も言わずに行方くらますお前が悪いだろ」 「ちょっと……2人は知り合いなの?」 言い合いをしている2人の間に割り込み、力強く聞いてみる。すると桐也はにこにこして口を動かそうとしたが、それを阻止したのは伊月だった。 「なんでもかんでも話すな。巻き込みたくないだろ」 「へぇ〜恩人に対してその態度はダメだな」 「2人とも!」 仲良さそうに戯れているように見えて仕方なかった薫は見えない絆があるような気がして、2人の会話を強制的に止めた。 「桐也くんは俺の従兄弟なんだよ。俺にとって兄みたいな存在だから、俺が好きなのは伊月だけ」 咄嗟に告白をしてしまった事に気づかない。それより2人の会話を止めて誤解されたくない気持ちと伊月は自分だけのものだと忠告として気持ちを表に出した。じゃないと遠く感じてしまいそうで仕方なかったからだ。 「薫……」 突然の告白に感激を覚えた伊月と、その光景が気に入らない桐也。複雑な空気の中で時が止まった。40話 勘違いの現実 ずっと薫と過ごした部屋で居続けている伊月は、現実から逃げるように耳を塞いだ、彼にとってどんな音も、心の不安定を引き出してしまう材料になっているようだった。二日間、何も食べずにいる伊月の様子を確認している部下は、ため息をつきながら、体を支えていく。「満足しましたか? これが現実なんですよ。貴方と彼は縁がなかったんです」 縁がなかったと言い切る言葉が強烈な痛みを彼の心に与えていくと、全身に見えない力がかかっているように、重力がかかっていく。こんな思いをする事は、初めての経験だった。どんな事があっても、乗り越えられる自信を持っていた伊月だったが、こうも直面すると、耐えられない。捨てられた現実を受け止めきれない心に亀裂が生じる。これ以上、傷つきたくないと思いながら、全ての言葉を遮断する。それしか自分を守る術を知らなかったんだ。「こうなるのは分かっていたはずですよ。好き勝手してきた報いですね。これ以上、説教する気はないんで、そろそろいきましょうか」 歩く意思のない彼の体を抱き抱えると、部屋を出る。まるで死体を運んでいるような感覚に陥りながら、ため息を吐いた。 カンカンと階段を降りていくと、彼の婚約者が待つ車が停車していた。彼の護衛をしている人達は、周囲を警戒しながらも、伊月を受け入れる体制を作り出した。「後は頼むよ。私はまだ仕事があるから」「はい、お任せください」 護衛をしている三人のうち、一人は自信たっぷりそう言うと、満面の笑みで送り出した。新人教育をしながら、護衛をしている他の二人に視線で合図を送ると、苦笑いが返ってくる。エンジンの音が唸り上げると、何もなかったようにその場を離れた。 二人は無言の中で同じ時間を共有し始める。過去ばかりを見ている伊月と、正体を隠しながら彼の様子を伺う薫の姿が対比を生み出していく。どんな言葉をかけたらいいのか考えてみるが、今の伊月には言葉で説得しようとしても、地獄に突き落とすだけだろう。マンションを出る前に電話で言われた言葉を思い出しながら、瞼を閉じた。「伊月には正体をギリギリまで明かすな。あ
39話 手放す過去 数日、伊月の様子を見ると連絡をもらうと、返事をして切った。薫がいない事を知った彼が今どんな状態になっているかを想像しながら、コーヒーを飲み干していく。普段なら飲まないブラックコーヒーも、何故だか今日は美味しく感じる。「……君の強さを見せてくれ」 いつでも自信満々で、輝いていた伊月の姿を思い出しながら、自分の願いを口に出していく。彼にとってどれだけ自分が大きな存在なのかを確認する事にもなる。今回の事は、二人の為にとっても今以上に成長を遂げれるはずだ。「しかし、あれには驚いたよ」 親父の部下が彼の想像に水を刺していくと、一人ではなかったことに気づいた。彼は苦シャリと頭を掻くと、苦笑いしながら答える。「彼の本当の気持ちを知りたかったんです。俺の我儘ですけど」「親父も驚いていただろうね。まさか薫くんがアドリブを入れるなんて思わないよ」 スーツ姿で、いつもとは雰囲気の違う薫は、いつきも知らない表情をしている。落ち着いていて、そこには色気が漂っていた。部下も、その色気に当たられそうになるが、その度に自分自身を調整しているようだった。 机の上には脱ぎ捨てられたマスクが異様に目立ちながら、空間を制していく。自分とは違う存在になれる、この道具に振り回されながらも、二人の為に、未来の為に、芝居の続きをしていこうとした。 親父に認められる為に、グレーな事もだいぶしてきた彼は、もう普通の生活には戻れない。彼を纏う空気も、人間関係も、全て闇に染め上げられているからだ。一度入ると、抜け出す事は出来ない。帰りのない道がそこにはある。 何処からか可愛らしい泣き声が聞こえてくる。それはまるで伊月のように思えて仕方なかった。「お腹が空いたのか、レイ」 何かを訴えるように、鳴き続けるレイの頭を撫でると、ドラックストアで購入した餌を取り出し、与えた。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 一日をかけて今までの自分の環境をクリアにしていく為に、断捨離をし始める。これ以上闇の世界を知らない人
38話 後悔と涙 全ての話が終わった伊月は、心の整理をする為に自由な時間を与えられた。その中には薫との関係性の区切りをつける事の意味も、含まれている。気が進まない彼の気持ちとは裏腹に、車は思った以上に早く目的地へと辿り着こうとしている。黒のセダンで送られた伊月は、薫に気づかれないようにする為に、少し離れたドラックストアへ誘導していた。キキッと勢いよく止まると、全てを記憶をかき消したい衝動を行動へと当てはめていった。「連絡する」 彼の言葉を聞きたくない伊月は、声をかけられる前に走り出し、今では車との間には距離が出来ている。そんな伊月の背中に向かって大声を出しながら、次へと繋げようと企む彼がいた。 早く薫に会いたい、今はそれ以上、何も望まない。その気持ちだけで無心で走り続ける。二人が時間を共にしていた居場所へ戻る為に—— その姿を見ている彼は、自分の正体を見せつけるように、マスクを剥がしていく。彼を知っているのは近くで眠っているカラスだけだった。伊月の知っている彼とは程遠い、大人の顔をしている事を誰も知らない。 必死で走っていた伊月の目の前に、薫の部屋が見えてくる。息を切らしながら、自分の限界を越えようとする彼の姿には、強引さが隠れている。離れていた時から、ずっと薫の寝顔を見ていた、あの時の自分を懐かしく思う。時間が巻き戻るのなら、何度でもやり直したい気持ちが彼を喰らっていく。 薫の部屋の前に着くと、ドアに手を当て、息を整えた。こんな顔を見られてしまうと、勘づかれてしまうと思った伊月は、精一杯、薫の望む自分を演じ始めようとした。「……出来るかな、僕に」 好きなのに、大好きなのに、誰よりも大切なのに、自分の気持ちを否定しながら、別れを伝えるなんて、今の伊月には到底出来ないだろう。それでもやらなきゃ、その矛先が薫に降りかかるのは見えている。遠回しでも、卑怯でもいい、学生時代のような自分の姿を思い出しながら、あの時の自分と重ねていく。「よし」 合鍵を取り出すと、ガチャリと鍵を回していく。あんなに身近に感じていた居場所が、今では
37話 新しい関係性 目の前に迫る選択の時は、近い。五分間しか与えられなかった伊月は、短い時間でも、自分にとっての最善を尽くそうとする。周囲の事を考えるのなら、ここは何事もなかったように受け入れた方がいいのかもしれない。それでも、どうしても諦める事が出来ない彼は、自分の素直な気持ちを言葉にしようと覚悟を決めた。「貴方とは婚約出来ません。僕には大切な人がいるから」 長い説明は必要ない。自分の為に時間を割いてくれている人達がいるのだから、簡潔に表現していく。ポツリポツリと言葉にすればする程、鼓動が早くなっていく。「もう決められた事だ。お前の気持ちは大切にしたいが、仕方ないんだよ」 二人の間に、親父が介入すると、全ての言葉を否定していく。自分の気持ちを大切に、と言っていた過去の親父はもういない。やっと言葉に出来たのに、こうも簡単に、拒否されるなんて思わなかった伊月は、唇を噛み締め、言葉を消化しようとしていく。助け舟を出してくれたのに、それを自分のものに出来ない彼は、自分自身を呪う事しか出来ない。「……なんで」「何か言ったか?」「いいえ」 顔を俯きながら、黙ると、その姿を見て、楽しそうに微笑んでいる。そんな親父の態度に気づく事なく、自分の世界に逃げ込もうとしている伊月は、彼の一言で一気に現実に引き戻されていく。「嫌いなら嫌いで構わない。最後にその大切な人、との別れの時間を作ろう。それが君にとって前に進む事になるのなら」 言葉の節々から、彼とは別人のような物言いに戸惑いながら、彼に視線を向ける。どうしてだか分からない、その言い方をしている人間を知っているような気がした。伊月の目の前にいるのは薫ではない。その現実を見ていると、ぐらりと宙が揺れ始めた。「それはいい。伊月、お前もそろそろ彼から卒業しないとな」「……」 親父の言葉に返事が出来ない。その一言で、自分の人生を変えてしまうから余計に。言いたくないし、言えない。無言で突っ立っている伊月を複数の視線が貫いていく。空間は彼にとって地獄のように砕け散った。
36話 親父が伊月を試す理由 全ての話を確認すると、胸を撫で下ろした。親父は内心ヒヤヒヤしていたが、彼は事をうまく運ばせていく。絶対的な存在の風貌を見せるようになったのは、伊月が姿を消してからだ。 自分の配下の人間を間に入れ、ずっと彼がここまで育つのを待っていた。最初会った時は、純粋すぎて、この世界では生きていけないように感じたからだ。自分が動く事で、彼にとっても、伊月にとっても冷却期間が必要と感じ、伊月を自由に出来ないように裏で手をまわしていたのだ。 「彼は思ったよりも、成長した」 「そうですね。七年も期間を設ければ人は変わるものですから」 直接会う事はしなかった。自分の影に気づかれては困るからだ。伊月に任せるのは危ういと感じていた親父は、全くタイプの違う存在を求めていた。 「今はいい。しかしいつか伊月はミスを犯す」 「試練を与えてどう対処するか次第ですよね」 「そうだが、無理だろうな」 罠を張った網に簡単に引っかかる自分の息子を見つめながら、ため息を吐いた。大胆な行動力も、自信家な所も危うさを感じていた親父は、自分が思っていた通りの結果になった時に、方向を修正していく。伊月の持っている力を全て彼に与える為だった。正体を明かさないように、忠告を送ると、二つの顔を完璧に使い分けながら、全てを進めていく彼が昔の自分と重なって見えていたのかもしれない。 「正体を隠す為に、このマスクを渡せ」 一つのマスクを渡すと、彼の元へと届けるように指示する。右側にキズが入った、本来の彼とは違うタイプの人間に化けてもらわないといけないと感じていたようだ。 「このマスクは……」 それはかつて子供だった伊月を可愛がっていたNo.2の顔に似せて作ったものだった。過去のケジメとして、違う課題を伊月は乗り越えなくてはいけない。その為に、必要なものだったんだ。
35話 決められた選択 諦めたくない気持ちが膨れ上がっていく。親父の言う事を聞いた方が、二人の為なのかもしれない。それでも諦めきれない伊月がいた。この願いが届くようにと祈りながら、待ち続ける事しか出来ない。自分の生きてきた証を全て取られてしまった今の彼には、薫を守る力は持ち合わせていなかった。奪われ、搾取されていく現実から逃げる事は出来ない。悔しさを抱えながら、顔を見られないように俯くと、低い足音が聞こえてきた。 「やっと来たようだな。お前も覚悟をするんだ伊月」 今までのツケが押し寄せてくる。選択肢を選ぶ事も、見つける事も出来ない自分を無力だと思うしかなかった。親父の元で足音は止まると、視線を感じる。自分のこれからを考えると、どうしても直視出来なかった。 「現実を見なくてはいけない。君は俺に負けたんだ」 影は人間の声を捨て、機械音声で語り出した。耳障りな音を拒絶するように顔を顰めると、止まっていたはずの足音がこちらへと向けられた。 コツコツと音が大きくなっていく度に、伊月の心臓も加速していく。黒い影の住人は彼が落胆しているのをじっと見つめている。 何も見たくないと隠している顔を、影はゆっくりと自分の顔を見せつけるように、あげていく。そこには見覚えのある表情が広がっていく。驚きに声を出せない伊月は、呼吸が止まりそうだった。 「君は俺の気持ちを理解出来ていない。だからこそ自由でいて輝いている。それでも俺はもう一度、本当の意味で君を手に入れたいんだ」 瞳の奥川に伊月の茫然とした顔が映り込んでいく。ポツリポツリと自分の気持ちを正直に述べていく彼の姿を、初めて見たのだろう。 「傍にいたのに、君はとても遠い」 憂を帯びた瞳からは、悲しみが隠れている。感情が瞳から放たれると、伊月の心を抉っていく。自分の思う通りに生きてきた事が、自由になりたい欲望が、こんなにも人を傷つけ、人生を変えてしまった現実を直視してしまう。